田んぼで育てていたのは米だけではない。それは票である -なぜ農家に補助金が出るのか-

起業

田んぼで育てていたのは米だけではない。

人口であり、
税収であり、
そして票でもあった。

では、なぜ農家は補助金を受け続けているのだろうか。

農業には様々な役割がある。
食料を生産するだけではない。
「経済」「インフラ」「安全保障」「防災」
にも貢献している。

しかし、本記事で紹介したこれらは農業が持つ役割のほんの一部に過ぎない。
農業は私たちが思っている以上に多くの機能を担っているのである。

普段は当たり前すぎて意識しない。
しかし、失われた時にはじめて、その価値に気付く。

1人の農家に日本の食料安全保障を背負わせることはできない。
1つの民間企業に国土保全や治水機能を担わせることもできない。

これらは公共性の高い役割であり、本質的に個人や1企業だけで担えるものではない。

だからこそ農業政策が存在し、社会全体で支える仕組みが必要になるのである。

農業業界の関係者数

農業政策が難しい理由の一つは、
関係者があまりにも多いことである。

その構造は歴史的に見ても日本社会へ大きな影響を与えてきた。

戦後の日本では農業従事者は1,000万人を超え、
1960年前後には約1,400万人ともいわれる。

当時の日本人の多くが、何らかの形で農業と関わっていたのである。

現在、主業として農業に従事する人は約100万人まで減少したが、

農協、問屋、物流会社、食品メーカー、スーパー、肥料会社、農機メーカー、建設会社、金融機関など、

関連業界まで含めれば、その数ははるかに多い。

農業は農家だけの産業ではない。

農業には様々な企業や組織が関わり、それぞれ異なる役割を担っている。
しかし、その利害が常に一致するわけではない。

・消費者は安い米を買いたい。
・農家は米を高く売りたい。
・スーパーは米を安く仕入れたい。
・肥料会社は原料高騰分を価格に反映し農家へ売りたい。
・食品メーカーは安い海外農産物も利用したい。
・財務省は補助金を減らしたい。
・国は食料安全保障のため国内農業を維持したい。

どれも間違っているわけではない。

それぞれの立場には理由がある。

だからこそ調整は難しい。

農家も一枚岩ではない

農家と聞くと、
同じ方向を向いた集団のように思えるかもしれない。

実際はそうではない。

農家は一枚岩ではない。

稲作農家、
葉物農家、
さつまいも農家、
畜産農家、
花卉農家、
施設栽培農家、
水耕栽培農家。

それぞれ栽培する作物も違えば、抱えている課題も異なる。

米価が上がれば喜ぶ人もいる。
一方で、飼料価格が上がれば困る人もいる。
肥料価格の変動に敏感な農家もいれば、そうでない農家もいる。

違いは作物だけではない。

同じ稲作農家でも、
小規模農家と大規模農家では経営環境が違う。

JAへ出荷する農家もいれば、
直接販売を行う農家もいる。

後継者がいる農家もいれば、
今の代で終わる予定の農家もいる。

借入金を抱えて設備投資を進めている農家もあれば、
すでに償却を終えている農家もある。

同じさつまいも農家であっても意見は分かれる。

豊作を歓迎する人もいれば、
価格下落を心配する人もいる。

人手不足を最大の課題と考える人もいれば、
肥料価格の高騰を問題視する人もいる。

さらに、人間である以上、判断は利益だけで決まるわけではない。

昔からの付き合いを重視する人もいる。
周囲に合わせる人もいる。

個人的な好き嫌いで賛成や反対を決める人もいる。

どれも不思議なことではない。

人それぞれ立場が違い、
見えている景色も違うからである。

農家同士ですら意見は一致しない。

政治の役割

こうした複雑な利害を調整することこそ、
政治の役割なのである。

しかし、話はそれほど単純ではない。

農家には農家の思惑がある。
消費者には消費者の思惑がある。
農協には農協の思惑がある。
肥料会社には肥料会社の思惑がある。
物流会社には物流会社の思惑がある。
自治体には自治体の思惑がある。

そして政治家自身にも思惑がある。

再選したい。
支持者を増やしたい。
地元に利益を持ち帰りたい。
自分の信念を実現したい。

それぞれが自分の立場から合理的に行動する。

だから農業政策は複雑になる。

ここで大切なのは、

この話に登場する利害関係者の多くは、基本的に誰かを陥れようと思って行動しているわけではないということだ。

少なくとも、自分なりに正しいと思うことをしている。

私はこの話を善悪で語りたいわけではない。

農家が悪いわけでもない。
農協が悪いわけでもない。
行政が悪いわけでもない。
政治家が悪いわけでもない。

基本的には皆、
自分の立場から社会を良くしたいと思っている。

ただし、

自分や仲間に少し有利になれば嬉しいとも思っている。

それもまた人間である。

だから正解は一つではない。

悪人との戦いなら簡単だ。

本当に難しいのは、善意と善意がぶつかることである。

だから政治が必要になるのである。

あらためて、なぜ補助金が出るのか?

色々な理屈はある。
しかし本質はシンプルである。

農業はなくなったら困る。
そして、衰退しても困る。

凶作になれば食料不足や価格高騰が起きる。
かといって豊作になれば価格が暴落し、
農家の経営が苦しくなる。

多すぎても困る。
少なすぎても困る。

農業とは、その微妙なバランスの上に成り立っている産業なのである。

そして、

その責任を一人の農家に負わせることはできない。
一つの民間企業に背負わせることもできない。

食料供給。
安全保障。
防災。
国土保全。
地域社会の維持。

これらは本来、社会全体で支えるべき課題だからである。

だから政治が介入する。

現実的な解決策として、補助金という仕組みが存在する。

市場原理だけでは解決できないからだ。

豊作になれば価格が暴落する。
凶作になれば価格が高騰する。
農業が衰退すれば、食料安全保障や国土保全にも影響が出る。

そのリスクを一人の農家や一つの民間企業に負わせることはできない。

だから社会全体で負担を分かち合う。

補助金とは、そのための仕組みなのである。

もちろん完璧な制度ではない。

補助金には批判もある。
税金の無駄だという意見もある。
既得権益だという意見もある。

それでも政府が補助金という仕組みを使い続けるのには理由がある。

政府から見れば、補助金は比較的扱いやすい政策手段だからである。

新しい役所や組織を作れば、建物も人員も必要になる。
そして一度作った組織は簡単にはなくせない。

補助金であれば毎年見直しができる。
金額の増減もできる。
対象を変更することもできる。

補助金は農業政策の調整弁であると同時に、
政府にとっての柔軟な政策ツールでもある。

だから長年使われ続けているのである。

私は補助金を「調整弁」だと考えている。
あるいは「緩衝材」
と言ってもよい。

市場の変動や社会的な要請を和らげるための仕組みなのである。

農業という不安定な社会システムを維持するための調整弁である。

ダムが洪水を調整するように、
補助金は農業を調整する。

農業政策とは、市場と社会の間に置かれた巨大な緩衝材なのである。

補助金もまた、農業という社会システムの遊水地なのである。

結論:田んぼで育てていたのは米だけではない

本当に怖いのは、ある日突然なくなることではない。
少しずつ衰退していくことである。

農地が減る。
担い手が減る。
技術が失われる。
地域が衰退する。

こうした変化はゆっくり進むため、気付きにくい。
しかし、放置すれば取り返しがつかなくなる。

だから補助金が存在する。

補助金は農家を守るためだけのものではない。

農業には常に衰退する方向への力が働いている。

衰退を少しでも緩やかにするための仕組みである。

言い換えれば、

補助金はロケットではない。
パラシュートである。

農業を空高く押し上げるためではない。

衰退の速度を少しでも緩やかにするために存在する。

農業は単なる食料生産ではない。

農業は経済であり、
インフラであり、
安全保障であり、
防災であり、
地域社会そのものでもある。

だから市場原理だけでは語れない。

そして、だからこそ補助金が存在する。

私がこれまで書いてきた話は、すべてここにつながっている。

米価や補助金の金額を議論することも大切だ。
しかし私は、それらは枝葉だと思っている。

本質は、農業が食料生産だけの産業ではないことにある。

農業は経済であり、インフラであり、安全保障であり、防災であり、地域社会そのものでもある。

だから政治が介入する。
だから補助金が存在する。

私はこれこそが日本の農業を理解する上での本筋だと考えている。

利害関係者が多すぎる。
だからどこかで政治的な結論が必要になる。

その結果、田んぼで育てていたのは米だけではない。

人口であり、
税収であり、
そして票でもあったのである。
タイトルとURLをコピーしました